少年時代
1920年、北九州小倉南区生まれ。曽根干潟や貫山での遊びを通じて潮の満ち引きと月の満ち欠けの関係を知るなど、自然への観察と科学への関心を深めていきました。 小倉中学校(現小倉高校)の体験旅行で大分県耶馬渓の青の洞門を訪れた時に、「もし、私に20年の時が与えられ、トンネルを掘るとしたら、前半の10年で掘削機械を開発し、後の10年で完成させる。そうすれば、トンネルは勿論、機械も残る」と感想文に書いたエピソードが知られています。研究に必要な機材は自ら設計・製作するという姿勢は生涯にわたって貫かれ、藤田オリジナルの機械類が保管されています。
明専時代
助教授時代には、母校の小倉中学の代用教員として物理や数学などを担当。生徒たちをワクワクさせた手作りの教材で工夫に満ちた授業を行うなど、生徒たちの探究心や知的好奇心を育みました。 1945年には原爆投下直後の長崎の原爆被害調査に赴き、自ら写真を撮影し、手書きの原爆被害地図を作成しました。この経験が後の「ダウンバースト」の発想につながります。1947年には背振山の観察小屋で「下降気流」を発見し論文を発表。この論文がシカゴ大学の研究者としての渡米のきっかけとなりました。
米国・シカゴ時代
シカゴ大学の気象学の権威であったバイヤース教授からの招聘を受け、1953年に東大の理学博士の学位を得て、シカゴ大学へ移住し研究者として活動をスタートさせました。1998年までの45年間の研究活動の中で約500報の研究論文を発表し、気象学上で多くの成果を残しましたが、中でも画期的といえるのが「竜巻の二重構造」と「ダウンバースト」の2つの発見です。 藤田博士は、1971年に竜巻の強さと被害の関係を表すF(フジタ)スケールを発表した後、竜巻研究の第一人者を現す”ミスター・トルネード”と呼ばれるようになりました。
博士の偉業
藤田博士の偉業を語る上で欠かすことができないのは、数多くの研究や発見、 提唱が気象学上の成果として現在に生かされているだけではなく、自然災害や航空機事故から人々を守るという点でも、社会的に大きな貢献があったことです。 その画期的な研究成果が高く評価され、気象学のノーベル賞と呼ばれるフランス航空宇宙アカデミー金メダルをはじめ、日本気象学会藤原賞、アメリカ航空宇宙学会ローシー大気科学賞、勲二等瑞宝章など、多くの賞を授与されています。 もしノーベル賞に「気象学賞」があれば、藤田博士は確実に受賞したであろうと言われ、シカゴ大学で90名を超えるノーベル賞受賞学者と全く同等の待遇を受けていました。